南学『横浜:交流と発展のまちガイド』

自転車で横浜の中華街までポダリングに行くようになってから、なんで横浜に中華街ができたんだろうと疑問に思って手に取った一冊。著者は横浜市の職員として働いていた人だそうで、横浜という町の歴史、人やものの流れ、博物館見学のポイントやまちづくりの考え方まで要領よくまとめられている。フルカラーのきれいな写真と地図のおかげで非常に読みやすく分かりやすかった。

大桟橋からはじめよう

このターミナルの設計の考え方は、建物の高さを低くし、主役である客船が高いところに見えて、客船の側から最初に見えるのが屋上の緑の広場になる、ということなのだそうです。また、〜ここからすでに未知の場所を訪ねているかのように、同じ道をたどらない、わくわくした感覚を大事にしてあります。

ランドマークにも三代の歴史

横浜の初代ランドマークは三つありました。この三つの建物は、ほどなく船乗りの間で、キング(横浜県庁)、クイーン(税関)、ジャック(開港記念会館)というニックネームで呼ばれ、横浜のランドマークとして定着したのです。〜そして、次の世代のランドマークは横浜マリンタワーでした。〜さて、三代目となる現在のランドマークは、なんといっても横浜ランドマークタワーです。〜このランドマークタワーからクイーンズスクエア横浜へと、海に向かってビルが緩やかに低くなっていくのが分かります。これは、みなとみらい地区の都市景観のガイドラインに沿ったものです。

文明開化の町ー博物館で歴史をたどろう

横浜には、文明開化から近代化という過程で窓口となり、外国から数多くの文化や技術が流れ込んできたため、さまざまな分野の博物館ができているのです。そのほとんどは特定分野の専門博物館で、〜それぞれが歴史的な建物の中で運営されているのも一つの特色です。〜横浜は、まち全体が一つの博物館になっているのです。〜横浜に港が開かれるとどのような商売ができるのかと、商人たちは好奇心をもつようになりました。〜その結果、日本人はもちろん、外国商人も商売のための情報が必要となり、欧米では普及していた新聞が横浜で発行されたのです。それが日本で最初の日刊新聞、「横浜毎日新聞」でした

良港の条件がととのっていた横浜港→桟橋から埠頭へ→赤レンガ倉庫誕生→コンテナ輸送で変わった港の風景

東京湾で船乗りが最も嫌う南風を、山手の丘がさえぎり、西風は野毛山が、北風は神奈川と鶴見の陸地がさえぎってくれています。強風のために東京湾のほかの港には入港できなくても、よほどの台風でないかぎり、横浜港に入港できなくなることは無いのです。〜桟橋では人の乗り降り、荷物の積み下ろしができるだけですが、埠頭となれば大型船が接岸でき、荷役作業量も大きくなるために、その場に荷物を一時保管する倉庫が必要となったのです。〜コンテナはトラックの荷台、船倉、倉庫という役割も果たせます。したがって、コンテナ埠頭に倉庫はいりません。〜したがって、現在では横浜港の物流機能の大半が、ベイブリッジの外側にある本牧埠頭、大黒埠頭、南本牧埠頭に集約されています。

未来に発展する都市 まちづくりの現場で学ぼう

外国人が増えると治安が問題になりました。〜横浜港の一帯には、一般の人々が簡単には出入りできないように関門(一種の関所)が設けられました。〜この関門の内側を「関内」、外側を「関外」といって区別しました。〜関門から港までは馬車道による周回道路が整備され、〜銀行がつぎつぎと建ちました。〜ミナトという雰囲気と人の集まる所には、当時、遊郭ができるのが自然でした。それが現在横浜スタジアムのある横浜公園付近です。〜その後、日本人町の火事が外国人居留地に及ばないように広い防火帯をつくることになったのです。これが横浜公園日本大通りです。

中華街の魅力は、じつは迷いながら店を楽しむことにあります。〜お金と時間の許すかぎり「迷い」ながら歩いてみましょう。

カラー版 横浜―交流と発展のまちガイド (岩波ジュニア新書)

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